「人生の短さについて」はユリウス=クラウディウス朝時代(紀元前27年~紀元後68年: 約2000年前)のローマ帝国の政治家、哲学者セネカによって書かれた本です。
セネカはストア派哲学を信奉していることでも知られ、暴君ネロの家庭教師として、治世の初期には補佐役としても活躍しました。
ローマ時代と言えば政治闘争や領土拡大のための戦争など激動の時代。
そんな激動の時代に生きたセネカが「人生は浪費すれば短いが、過ごし方しだいで長くなる」ということをこの「人生の短さについて」を通じて2000年間に渡って多くの人々に伝えてきました。
「何かを挑戦することに躊躇している方」、「意義の感じられない仕事を続けている方」の背中を押してくれる書籍だと思います。
われわれが手にしている時間は、決して短くはない。むしろ、われわれが、たくさんの時間を浪費しているのだ。
人生の短さについて – セネカ
人生の短さについての構成
「人生の短さについて 他2篇」ですが全部で3部構成となっており、
- ローマの食料管理官として従事する友人のパウリヌスに宛てた手紙
- ネロによって島流しに遭った逆境にある息子セネカの不運を嘆き悲しむ母親への手紙
- 仕事や友人、財産との付き合い方に悩む友人
とそれぞれの人物に宛てた手紙をまとめたものです。身近な人へのアドバイスということもあり、文章からはセネカの熱い感情が伝わってきます。
セネカが伝えたかった主要なメッセージ
その中でもセネカが伝えたかったを3つを個人的にまとめました。
- 人生は使い方次第で短くも長くもなる
- 主体性を持って人生を生きろ
- 自分の心の持ち方を鍛えろ
2の[主体性を持って生きろ]についてはショーペンハウアーの読書についてで自分で考えることの重要性を説いていますし、映画ファイトクラブでも主体性を持たないと「君が自分の存在を主張しないなら、君は統計データの1つになる。」と色々な分野でその必要性を語られています。
以下ではこの3つそれぞれのセネカの言葉と自分の解釈を交えて紹介していきます。
人生は使い方次第で短くも長くもなる
時間を浪費する人生の短い人
現代に生きる私たちはSNSや芸能人のゴシップに夢中になり、他人の幸不幸に非常に敏感になっています。
SNSを眺めて1日の大半を過ごしてしまう人、A〇をみてシコシコしてしまう人、言われた仕事をぼーっとこなす人が大多数でしょう。
こういった人たちは目的もなく時間を過ごし、いつの間にか不運が訪れるとセネカは言います。
さらにセネカはこういった人々が過ごしている時間は生きているとは言えず、ただ単に時間を浪費しているだけと続けます。
ショーペンハウアーもこう言った人々は考え方がほとんど同じで誰も違うことを思いつく人はいないと言っています。
多くの人たちは、他人の幸運につけ込んだり、自分の不運を嘆いたりすることで頭がいっぱいだ。
人生の短さについて – セネカ
また、大多数の人たちは、確固とした目的を持っていない。彼らは不安定で、一貫性がなく、移り気だ。だから、彼らは気まぐれに、次から次に新しい計画に手をつけるのだ。
自分の進むべき道について、なんの考えも持ちあわせない人たちもいる。彼らは、ぼんやりとあくびをしているうちに、運命の不意打ちをくらう。
まったくもって、最も偉大な詩人(5) の述べる神のお告げめいた言葉が、真実であることに疑いの余地はない。
いわく、「われらが生きているのは、人生のごくわずかの部分なり」と。なるほど、残りの部分はすべて、生きているとはいえず、たんに時が過ぎているだけだ。
物事の本質を理解できない人
物やお金が盗まれたら当たり前ですが、めちゃくちゃ腹が立ちます。
ですが、時間に関してはいつの間にか盗まれていたり、勝手に使われているということに気づきません。
なぜ気づかないのか。
それは見えないものだからではないでしょうか。自分の時間に明確な値段や価値がついているわけでなく、自分でさえその価値に気づいていないのだから当然と言えば当然のことなのかもしれません。
大抵の人は目に見える肩書きや値段ばかり重視して、物事の本質を理解しようとしないし、死ぬまで気づくことはないんですね。
だから少数の自分の時間の価値に気づいている偉大な人物たちは無駄な時間だと思ったらすぐにその場から立ち去ったり、人に要点から話させたりするのだと思います。
ひとは、自分の土地が他人に占拠されることを許さない。
人生の短さについて – セネカ
土地の境界線をめぐるいさかいが起これば、それがいかに些細なものであっても、石や武器を手にして争おうとする。
それなのに、ひとは、自分の人生の中に他人が侵入してきても、気にもしない。
いな、それどころか、いずれは自分の人生を乗っ取ってしまうようなやからを、みずから招き入れるようなまねさえするのである。
自分の金銭を他人に分け与えようとする者など、どこを探しても見あたらない。
なのに、だれもかれもが、なんとたくさんの人たちに、自分の人生を分け与えてしまうことか。
ひとは、自分の財産を管理するときには倹約家だ。
ところが、時間を使うときになると、とたんに浪費家に変貌してしまう――けちであることをほめてもらえるのは、唯一このときだけだというのに。
人生最後の日を総決算の日と考える
セネカは人生最後の日を決算日と捉え、自分の人生で使ってきた時間を損益で単純化しようとしています。
ここで損にあたる部分は「他人のために使った時間」と「不摂生のために使われた時間」。
利益にあたる部分はその逆である「自分主導で使った時間」です。
自分の人生を思い返してみると本当に自分のために使った時間って半分以下なのではないでしょうか。
単純に考えてみても、
- 睡眠: 8時間
- 仕事: 8時間
- 風呂、食事、その他生きる上での雑務: 3時間
これらの時間が絶対に削れないと考えると自由に使える時間は5時間ですよ。(やべえ…)
その5時間をさらに色んな人に奪われていると考えると私たちが生きていると言える時間は人生の1/4以下なのかもしれません。
では、計算してください。
人生の短さについて – セネカ
あなたの生涯から、債権者によって奪われた時間は、どれだけですか。
愛人によって奪われた時間は、どれだけですか。
主人によって奪われた時間は、どれだけですか。
手下によって奪われた時間は、どれだけですか。
夫婦喧嘩によって奪われた時間は、どれだけですか。
奴隷の懲罰のために奪われた時間は、どれだけですか。
つとめを果たすために、街中を歩き回って奪われた時間は、どれだけですか。
では、次に、みずからの手で招いた病気[のために失われた時間] を加えてください。
さらに、使われることなく無駄に過ぎていった時間も加えてください。
――もうおわかりでしょう。
あなたの手元に残る年月は、いま足し合わせていった[失われた] 年月よりも短いのですよ。
主体性を持って人生を生きろ
セネカが定義する賢者というのは「自分自身の主人」であるということ。
個人的には政治が不安定でも、住んでいる土地がどこであっても、一緒に過ごす人が誰であっても常に自分を律し、自己を保ち、主体的で自由である人のことと解釈しています。
つまり、環境、場所、周囲の人に依存しない確固たる自分を持っている人ということですね。
確かにそんな人は自分の周りを見てみてもあまり多くはないです。というかいないです。
賢者は、決して、「半分だけ自由」であることはない。
人生の短さについて – セネカ
賢者は、つねに、揺らぐことのない真実の自由を持ち、なにものにも縛られず、自分自身の主人なのである。
そして、賢者は、すべてを越えた高みにいるのだ。じっさい、運命を超越した人間の上に、何がありうるというのだろうか。
忙しい人
セネカは忙しさで心が散漫になると、インプットの質も低くなるし、深く考えられなくなると言います。
個人的にある程度の忙しさは時間の工夫になって効率が上がると思うのですが、自分主導で使える時間が極端に削られて、寝る、食う以外の選択肢がなくなると急に人生への絶望感が増す気がします。
学習意欲も減るし、娯楽に逃げる欲もなくなるし、「あー早く寝たい」で一日が終わるんですよね。
今の時点で私が考える幸福へのカギは自分主導の時間をどれだけ増やせるかがだと思っています。
多忙な人は、みな惨めな状態にある。
人生の短さについて – セネカ
その中でもとりわけ惨めなのは、他人のためにあくせくと苦労している連中だ。
彼らは、他人が眠るのにあわせて眠り、他人が歩くのにあわせて歩く。
だれを好いてだれを嫌うかという、なによりも自由であるはずの事柄さえ、他人の言いなりにならなければならない。
そんな人たちが、自分の人生がいかに短いかを知りたがったなら、その人生の中で、自分のものだといえる部分が、いかに小さいかを考えさせればよい。
未来のために現在を犠牲にする人
「未来のために現在を犠牲にするな」と言われると、自分の好きなことのために怠惰な生活を送るべきと曲解する人がいるがそれは違うと思います。
実際セネカも現在を犠牲にすることに警鐘を鳴らしつつ、目標を設定することが重要だということは述べています。
怠惰 | 目的志向 |
---|---|
現在を重視 | 未来を重視 |
主体性なし | 主体性あり |
時間を浪費 | 自分主導の時間が多め |
簡略化するとこんな感じになってしまうと思いますが、目的志向の方は未来に希望を抱きつつ、主体的に現在の時間を目一杯生きていると解釈することができるはずです。
怠惰な方は現在を大切にしているというより、ただ存在しているだけです。
先見の明があると自惚れている人たちの意見くらい、信用できないものがあろうか。
人生の短さについて – セネカ
彼らは、よりよく生きられるようにと、多忙をきわめている。
生を築こうとして、生を使い果たしてしまう。
彼らは、遠い将来のことを考えて計画を立てる。
ところが、先延ばしは、人生の最大の損失なのだ。
先延ばしは、次から次に、日々を奪い去っていく。
それは、未来を担保にして、今このときを奪い取るのだ。
生きるうえでの最大の障害は期待である。
期待は明日にすがりつき、今日を滅ぼすからだ。
自分の心の持ち方を鍛えろ
暴君ネロによって島流しにあった時にでもセネカは心を強く保ち、都会よりも今住んでいる荒れた土地の方が住み心地が良いとまで言ってます。
どこに住もうと、どんな暮らしをしようと自分の徳だけは持っていくことができる。
だからその誰にも奪われることがなく、どこへでも持っていける徳、「自分の心」だけは強く鍛えておこうということです。
この世界は、自然が生み出したものの中で、最も偉大で、最も美しいものです。そして、人間の精神は、この世界の観察者にして賛美者であり、この世界の最も偉大な一部です。それは、われわれだけの永遠の所有物であり、われわれが存続し続けるかぎり、われわれと共にあるのです。
人生の短さについて – セネカ
幸も不幸も自分の所有物かのように振る舞う人
鋼の錬金術師では全は一、一は全という有名な言葉が、哲人皇帝マルクス・アウレリウスも人間は宇宙の中の一つの存在に過ぎないと語り、仏教にも梵我一如という考え方があります。
共通している意味は「個人は全体の中の1つの存在でしかなく、命尽きる時にはやがて全体に戻る」というものです。
人の命は運命が与えてくれたものであり、それは自分の所有物ではなく、一時の借り物に過ぎないというわけです。
運命から与えられた幸福も不幸も自分のコントロールできるものではないのだから、幸福な時には偉そうにせず、不幸な時にはコントロールできる部分で立ち向かっていこうということを主張しています。
運命が与えてくれた贈り物を、まるで自分の永遠の所有物であるかのように愛し、そのような贈り物ゆえに、ひとから尊敬されたがっている人たちがいます。
人生の短さについて – セネカ
そんな人たちの精神は、子どものように空っぽです。
しっかりとした喜びなど、なにも知りはしません。
そんな精神が、[運命の与える] 偽物の移ろいやすいなぐさめから見捨てられるとき、彼らは悲嘆にうちひしがれるのです。
しかし、これに対して、順境にあっても思い上がることのない人は、たとえ状況が変わっても、落ち込むことはありません。
そのような人は、幾多の試練を経て強くなった心で、よいことに対しても、悪いことに対しても、ゆるぎない気持ちを保ちつづけます。
彼は、幸福なときにすら、不幸に立ち向かう力を試しているのです。
貧困について
最近ではミニマリスト的なライフスタイルが流行っているということもあり、若い20代-30代の考え方と昭和までの価値観である大量消費大量生産的な考え方とで変わってきているように思います。
運命の女神のほほえみを受けたことのない人のほうが、運命の女神に見放された人よりも、快活なのである。
とセネカががいうように一旦上がってしまった基準は中々下げられるものではありません。
手にしていない方が、手放すよりもたやすく耐えられるというわけです。
個人的にお金を稼がなくていいという考え方ではありませんが、自分主導の時間を手に入れることができるぐらいのお金を稼げたら、それ以上は必要ないと考えています。
お金をどれだけ稼いでいたとしても「金、女、車」とか言っている人は薄っぺらいなと思ってしまいます。
こういった人たちに偉そうな顔をさせないために経済的に成功しつつも真逆の生活を送ることが今の目標です。
貧困はなんら悪いものではありません。
人生の短さについて – セネカ
そんなことは、すべてを破壊する強欲と贅沢によって、狂ってしまった人でもないかぎり、だれにでもわかることです。
人間が自分を維持するために必要なものは、じつにわずかです。
ですから、少しでも能力のある人間なら、そのようなものに不自由することなど、ありはしないのです。
人生の短さにについてのまとめ
・人生は使い方次第で短くも長くもなる
・他人の幸福も不幸に時間を浪費しない
・モノ以上に時間を大切にする
・自分自身の主人であれ
・自分主導の時間を増やす
・自分のコントロールできるものだけに注意を払う
・元々手にしていない方が、手放すよりもたやすく耐えられる
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